2013年10月の記事一覧

同じ職場で働いていた医者つまり同僚が、今私が働いている病院に
入院してきたんです。
かなり仲のよい間柄だったので気軽に会話ができるのは間違いないのですが
ついつい過去の呼び方で「先生」とつけてしまいます。


今は患者さんという立場なので「さん」と呼んだほうがいいのか、
それとも「先生」と呼んだほうがいいのか悩んでいます。
「さん」と呼ぶことで気を悪くする可能性もありますし、
「先生」と呼ぶのも他の患者さんの手前問題があるような気がするのです。


こんなことを考えているとちょっと病室を訪室するのがためらわれる
そんな感じになってきてしまいました。
考えすぎなのでしょうか

回答・解決法
まず、根本的なところなのですが医師をどうして「先生」と
呼ぶようになったのでしょうか。
患者さんが命を預けるのに尊敬の念をこめて「先生」というのは
理解できるわけですが看護師が医師を「先生」と呼ぶことに違和感を感じます。


そして前提としていくら尊敬できる先生であったとしても
同じ職場で働く仲間なわけですから
「先生」と呼ぶ必要は無いと考えられます。


しかし、このような正論を貫くのは容易ではありませんし
そのようなことをする必要は無いでしょう。
また、患者さんによっては医師のことを「さん」付けで呼ぶ人もいます。
「先生」と呼ぶべきか「さん」とすべきかはその患者さんの性格にもよります。
うちの父親は「先生」と呼ばれるのを嫌がっていましたからね。

考えられる問題としては他の患者さんとのバランスです。
その人の立場によって呼び方が「さん」であったり「先生」であったりすることは
少し問題となる可能性があります。
「さん」と呼ばれる人は「先生」や「様」と呼ばれる人よりも
差別的な扱いを受けているという印象を持つかもしれません。


呼称というのはそれそのものが問題になるわけではなく、
それを使った場合に存在する意識の問題なのです。
ですから、患者さんがお互いをどのように呼び合うかは良いとして
医療従事者が患者さんのことを「先生」のように呼んでしまうと
このような問題に発展する可能性があります。


そういう意味でも統一感を持たせるためには「さん」で
呼ぶのがスマートなのではないでしょうか。

あなた自身が語っているように「今は患者さんなので「さん」と呼ぶほうが気が楽なのでは」と
言っているのですから一言その人に言えばいいのです。
「患者で来られているのですから、これからは「先生」ではなく「さん」で
呼ばせていただきますね!」と言ってしまえば楽になるのではないでしょうか。


問題を大きくしてしまう前に小さく片付けてしまうことが重要です。
その患者さんとの間で合意を得ればあなたの心の問題も
それで解決してしまうわけですから。


今回の悩みについては、そもそも医師が「先生」と呼ばれていることが
根本的な問題であるといえます。
コレさえなければこのような問題は発生しなかったでしょう。
ですから、まずはオフのときだけでも「先生」と呼ぶのを辞めてみるというのも
この先いいのかもしれませんね。

今受け持っている患者さんの中に2型糖尿病の男性がいます。
糖尿病のため食事制限がかかっているのですが、
その男性患者さんは食事療法を全くやろうとしません。


毎日のように大好きなまんじゅうを食べては血糖値が300を
超えている有様です。
控えるように注意すると「食べたいものを食べられないぐらいなら死んだほうがまし。
まんじゅうを食べてしぬなら本望だ!」といったようなことを言うのです。


最初は家族も自省するように言ってましたが最近は諦めているようで
好きなようにさせてくれていいと言います。


医療従事者としては患者さんの人生ではあるものの、
限りなく体に悪い事を放置しておくことは看護師としてあるべき姿ではなく
看護師の存在意義ややりがいってなんだろうと壁に当たってしまいました。

回答・解決法
この悩みを聞いて私は7年前に他界した父親を思い出しました。
同じように糖尿病を発症しましたが食事療法はまったくせずに、
インスリンで血糖値をコントロールしていましたね。


最終的には肝臓がんになって他界しましたが、その間は飲酒はもちろん
甘いものは食べるといったようにやりたい放題でした。
このように患者さんのやりたいこと、好きなことがそのまま
体にとって良くないことであることは多くありますし
看護師をしていればこのような場面に出くわすことはしょっちゅうです。


年齢が70を超えているということもあって、どのように接すればよいのか
まだまだ頑張れる様子の患者さんを見ると、どうしても何とか
回復して欲しいと考えるものです。
そういったところがジレンマとなって悩みに繋がっているのでしょう。

看護師としては食事療法を取り入れるべき患者が
それを守れていないとなれば指導を行い血糖値の管理を行うのが
仕事であることはいうまでもありません。


しかし、あなたはこの患者さんがおまんじゅうを食べたいだけ食べるということが
人生におけるQOLに関わっていると考えているのです。
その観点は素晴らしいと感じざるを得ません。


本質的な問題はすごく単純で「まんじゅうを食べるか食べないか」という一点なのです。
その一点に集約されているからこそ、その事実とどのように向き合うべきなのか
という悩みが発生してしまうのでしょう。
看護師としてその問題に対する立ち位置をどうするかということが、
看護そのものといってもいいのではないでしょうか。

私の場合、父には最終的に食事に関する指導は行わないことにしました。
しかし、そのことは指導をしたほうがいいのではないか?という悩みを
解消してくれるものではなく、むしろ葛藤だけは残っていましたね。


それはなぜかというと、看護師にとって「ケアをしない」と決めることは
「手抜き」ではないか「職務放棄」ではないかという、後ろめたさを
感じてしまうからだと思います。


この考え方はプロとして専門家としての良心として
決して間違った考え方ではないと思います。
ただ、必ずしも指導や注意を「すること」が正しいとは限らないということです。


患者さんに合わせて臨機応変に対応していくことも、
看護師には求められているのではないでしょうか。
それが人と接することを職業としている看護師の使命ともいえると思います。

ある患者さんは辛くても笑顔を絶やさない方がいます。
医師や看護師とも非常に良い関係を築いているのですが、
1点だけその患者さんへの対応で困ったことがあります。


それは、モルヒネでの痛み止めを拒む患者さんということです。
その患者さんの病状は末期がんであり相当な痛みがあるのですが、
どうしてもモルヒネを受け付けてくれないのです。


痛みと戦うことに意味があると考えているようなので、
私たちがモルヒネをと言っても取り合ってくれません。
モルヒネの効果についても十分理解しているようなのですが・・・
患者さんが自分の治療についての信念を持っている以上、
医療者として無理強いすることはできませんが
痛みでもがき苦しむ様を見ているのは非常に辛いのです。

回答・解決法
モルヒネを拒否する患者さんへの悩みですが、
私が新人時代に関わった患者さんのことを思い出しました。
その患者さんは進行がんで全身に転移しており、相当な痛みが
全身を襲っていたはずなのです。


患者さん自信もそのことは承知しておられたのですが、
モルヒネ投与を進めたところ断られました。
どれほどの苦痛があるかは類推するしかありませんが、
モルヒネについての説明を行っても聞き入れてはくれませんでした。


私たち医療従事者は患者さんの残りの時間を少しでも
苦痛なく過ごせるようにとあらゆる選択肢を用意するわけですが、
最終的にモルヒネを受け入れたのはお亡くなりになる数日前でした。
このような事例は少なくありません。
私たちの力量不足かと悩んだ時期もありました。

その患者さんがモルヒネを受け入れたときに零した言葉が
「もう降参だよ」でした。
この言葉から類推するにその患者さんはモルヒネで命が縮まると
考えていたわけではなく、あなたが至った結論と同じく
「痛みに耐え続けることに意味がある」と考えていたのではないかということです。


痛みに耐える=苦痛を受け入れている=見返りとして長く生きていたい
そういう思考回路に入っていたのかもしれません。


人は窮地に追い込まれたときにこの苦労を乗り越えれば
その先にいい事があるに違いないと考える思考が生まれることがあるのです。
これを「取り引き」という段階であるという人もいます。


無理なことだとわかっていても、引き下がることが出来ない精神状態は
その人でないと分からないものなのでしょう。

仮にこの推理が当たっているとすれば、あなたの患者さんにモルヒネを勧めても
それは決して受け入れられるものではないでしょう。
ただ、私たち医療従事者は患者が拒否しているから勧めない
という選択肢は持つことが出来ません。


私たちの仕事は行動を変えることが出来なくても、
痛み止めという最善の策を勧めることしかないのです。
だからといって痛み止めを強要するようなことはNGです
何故ならば患者さんの考え方は尊重しなければならないからです。


この方法だけが唯一の選択肢だ!といって強要してしまっては
患者さんにとってはそれは痛みに耐える以上に苦痛かもしれないからです。
患者さんの気持ちを十分に考えた上で、否定しないレベルで
勧めることが看護師としての仕事といえるのではないでしょうか。

あなたが患者さんはもしかすると痛みに耐えているのではないか、
それが何か意味のあることだと信じているのではないかという
考え方に至ったことは今後、看護師として仕事をしていく上で
非常にポイントとなるきっかけとなるかもしれません。


患者さんとの繋がりというのはそこで終了するわけではなく、
あなたが何かのタイミングでそのことを思い出したり
また経験を重ねることでそのことに対する考え方や解釈、評価も
変わっていくかもしれません。


看護師をしていると様々な悩みの種に出会うことになりますが、
それらに正面から向き合うということが看護師の醍醐味とも言えるのです。
まさに看護師冥利に尽きるといったところでしょうか。
息長くそれらについて考えていけるようにしてくださいね。

身寄りの無い患者さん、治る見込みの無い患者さん、
命に関わるものではないが一生歩くことの出来ない患者さんなどが
稀に口にする言葉が「もう死んでしまいたい」です。


この言葉は患者さんの命を守ることを仕事としている看護師にとっては
非常に辛い言葉であります。
命を永らえることが辛いということは、看護という仕事を全否定しているからです。
患者さんが看護師の立場を考えて発言する必要はないので、
このことで患者さんを責めることはありませんが、このような言葉を投げかけられたとき
看護師としてどのように振舞えばよいのか悩んでしまいます。


生きる権利がある以上、死ぬ権利というのもあるのでしょうか。
看護師としてこのようなことを考えるのは何か間違っているような気がします。

回答・解決法
以前に受け持った患者さんは脳卒中で片麻痺となってしまいました。
思い通りに動かない手足を嘆き、日々を泣いて暮らしていました。
ただでさえ、現実を受け入れられないところに加えて肥満体のため
リハビリも思うようには進みませんでした。


私達がリハビリに連れて行こうとすると「殺せ!」と泣き喚きます。
しかしその言葉とは反対に食事の時間になると、不自由な手で食事をこぼしながらも
全ての食事を綺麗に平らげます。


殺せ!と死を願う気持ちと、食に対する執着。
この二つの相反する行動に若い私は戸惑いました。


彼女は本当に死にたかったのでしょうか?
あれから数十年経って、それなりの経験を積んだ今では
どちらも彼女の本心だったと思っています。


「命あっての物種。せっかく生きているのだから、もう少し頑張ってみましょう」
今ならきっとこう声を掛けるでしょう。
生きる意志がなくなったとしても、死にたいとは限らないのです。

どんな状況になっても、周囲の人達が「助かってよかったね」と
言ってくれれば、患者さん本人の気持ちはどれだけ救われるでしょうか。


私達看護師の仕事は患者さんの「生きたい」という願いを
最大限に伸ばしてあげることです。
何があっても大丈夫。
生きることはそんなに難しくない。
そう楽観視することがプロのスキルです。


ただし、これは「死なせてあげたほうがいいのではないか」という気持ちを
否定するために書いているのではありません。
患者さんの気持ちに寄り添えば寄り添うほど重たい気持ちになるかもしれません。


それでも患者さんの「死にたい」とっている事実は肯定しつつ
「命があってよかったね、助かってよかったね」と笑うことはできます。
事実を肯定することと、「死にたい」と思う気持ちを肯定する気持ちは別の話なのです。

あなたが色々な方法で患者さんにアプローチしたとしても
直ぐに良い反応を返してくれるとは限りません。
患者さんの「死にたい」という考え方を肯定することは看護師として
できるものではありません。


患者さんから「楽天的で何も苦労していない看護師だ!」と思われても、
それを演じることも看護師の役割であり仕事であると考えます。


そして大事なことは「死にたい」という発言にたいして、
「死ぬべきか」「生きるべきか」についての議論に踏みこむ必要はない
逆に踏み込んでは行けないと考えましょう。


何が大切なのか、何が大変なのか、何が幸せなのかは
立場立場によって変わってきます。
看護師としての立場で「生きていれば~」などといっても
中々それは通じるものではありません。
議論に入らないことが看護師として必要なスキルと言えるでしょう。

患者様という呼び方について非常に違和感を感じます。
患者「様」という言葉だけを見れば丁寧な言葉を使っているということになりそうですが、
様をつけることによってそこには壁が出来ているのではないかと思うのです。


患者中心の医療であることを全面に出すことを目的としているようですが、
単純に呼び方を変えただけでは何も変わらないと思います。
実際に、患者様といいながらも医師が優位な立場であることは変わりありません。


患者「様」と呼ぶことに壁を感じてしまい、本来あるべき
人と人のふれあいのようなものが失われてしまっているのではないかと
ホテルで受けるようなサービスを医療に求めているのでしょうか。

回答・解決法
ものの捉え方というのが日本では非常に重要な点として考えられます。
言葉を言い換えることで差別的な意識を少しでも和らげようとしたり、
組織や社会の方向性を変えようという狙いがあります。


当然、言葉だけを変えたとしてもそこには何も生まれません。
言葉を変えることで「意識を変える」「現状を変える」という意味がこめられています。
いきなり現状や意識を大きく転換することは難しいですから、
その手始めとして「言葉を変える」ことから始まるのです。


ただ、悩みの中にもあるように「言葉だけを変える」では意味がありません。
実態がついてこなければ薄っぺらいものになってしまい
形骸化してしまうからです。
それはサービスを提供する側ではなく受ける側がどのように判断するかにも
変わってくるでしょう。

しかし患者様でなければならないかというと、個人的には違和感を感じます。
なぜかというと「患者様」でなくても「患者さん」で十分表現できているからです。
例えば知人の夫のことを「旦那さん」というか「旦那様」と呼ぶかの違いに
近いものがあると考えるからです。


ただ、患者様と呼ぶことは嫌だといって正論を振りかざすことは
自分にとっても組織にとってもあまり良いことではないと思うからです。
しかし患者様と呼ぶことに対する違和感というのは紛れも無いものですから、
上手く使い分けることが大事だと思いますね。


例えば、公的な場面「引継ぎ」や「状況報告」などの場面においては
「患者様」と発言し、個人的な会話や文章などにおいては「患者さん」を使うなど
その場に応じた使い方をすることで葛藤というのは和らぐと思います。
患者を第一に考えることが堅苦しい言葉を使うことではないという考えは
間違っていませんが、全体的な意識の変化をもたらすためという認識でいればいいでしょう。

医療というのはどこまでがサービス業であるべきか、という悩みについては
もはや哲学的といっても過言ではありません。
医療というのは過去を振り返ると医師中心に行われてきたということは間違いありません。


ですから、患者様と呼ぶことに抵抗を示すとそれは過去の医療にすがっているのではないか?
というレッテルを貼られてしまいかねません。
ですから、医療従事者はそのような決定に対しては従うほかないのです。


しかし、サービス業として考えた場合の医療というのは難しい問題を抱えています。
それは「平等性に欠ける」という問題です。
お金があれば先進医療だって受けられる、お金の無い人はそれなりの医療しか
受けることが出来ないというような弊害です。


サービスを受けるためにはそれなりの対価が必要であるということは
紛れも無い事実ですがこと医療についてみてみると命に関わることだけに
受けられるサービスに格差があるというのは難しい問題なのです。
看護師としてこのような悩みにぶつかるというのは、逆に看護の醍醐味である
と考えるのも悪くないでしょう。

私が担当している患者さんで末期がんの方がいるのですが、
回復の見込みは無いといわれている患者さんなんです。
でも、その患者さんの御家族が癌治療に効果があるとして
「ルルドの水」を患者さんに飲ませているのです。
ルルドの水というのはフランスのピレネー山脈から湧き出ている水のことで、
多くの病気を回復させたという奇跡の水と言われています。


実際に効果があるかどうかというのは分かりません。
おそらくは効果はないでしょう。
しかし、御家族がこれない場合はコレを飲ませてくださいと私に
依頼してくるのです。


仕方なくその意を汲んで行っていたのですが、
ドクターから「看護師はそこまでする必要はない」といわれました。
どこまでが看護師として許される範囲なのか悩んでいます。

回答・解決法
看護師としての立場と、人としての立場というのは違うということです。
家族が自分達の意思でルルドの水を飲ませるというのは否定できません
そこに効果があるかどうかは飲ませるのを辞めさせる理由にはなりません。


しかし、看護師として水を飲ませるという行為を代行するのは
通常の医療行為従事者であるならば「出来ない」と判断するのが正しいでしょう。
病院が管理できていない水を治療に近いかたちで看護師が
患者に与えるとなるとそれによって発生する問題について誰が責任を取るのかということになります。


ルルドの水という化学的医学的に立証されていないものを飲ませることは、
もしかしたら奇跡的に回復するかもしれないという想いがあるからこそ
あなたも悩んでいるのでしょう。
しかし、冷静になって考えてみる必要があるのではないでしょうか。

民間療法という言葉があり実際にそのような治療は日常的に行われています。
しかし、どこまでを民間療法と呼びそうでないものとするのかは難しいところです。
ルルドの水に関して言えば民間療法といっていいのかどうかも怪しいですし、
そのような怪しいものについてはビジネスが関係しているのではないかと勘ぐってしまいます。


しかし、民間療法的なものを否定することから入ってしまうと
西洋医学至上主義ではないのかという批判を受けることにもつながりかねず
そのような点においても悩みの種となってしまうでしょう。


代替療法、民間療法、それぞれは個人的に実施する分には問題ありませんが
やはり医療従事者としてそのことに手を差し伸べるというのは違うと思います。

最終的に民間療法については患者の自己決定にゆだねるということになります。
私たち医療従事者は民間療法を薦めるわけには行きません。
しかし、患者さんがまじないでも何でもいいからすがりたいとうことであれば、
それを否定することは出来ません。


このことについて患者の意思を尊重するのか、そんなことは意味が無いから
ちゃんとした治療に専念させるようにするのかというのは、
医療従事者としての信念というものがあったとしても各論を得ることは難しいでしょう。


この悩みというのが、そもそも医療従事者の誠意なのではないでしょうか。
何が正しいのかということに対して、患者と医療の狭間に立って
大いに悩むことは間違ってはいないでしょう。
ただ、対極的に見た場合は自己決定にゆだねるということが根本にあるのです。

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